異端者の哀しみ
『ハウス・ジャック・ビルト』

Review
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『ハウス・ジャック・ビルト』


予告編

THE HOUSE THAT JACK BUILT Official Trailer (2018) Uma Thurman, Matt Dillon, Lars von Trier Movie HD

編集部評価

総合評価:★★★★☆

ギミック:★★★★★
様式美:★★☆☆☆
不気味さ:★★★★☆
ストーリー:★★★★★



あらすじ

 舞台は1970年代、アメリカのワシントン。建築家を目指す技師のジャックは、土地を購入し自分の家を建てようとしていた。

 ある日、ジャックは運転中に女に止められる。タイヤがパンクしたがジャッキが壊れたから近くの整備所まで送ってほしい、と言われ断れないジャックだったが、「知らない人の車に乗るんじゃなかった」「あなたがサイコパスだったらどうしようかしら」「サイコパスならきっとあたしの死体はあの林の向こうに埋めるでしょうね」と、かまびすしい女に顔をしかめる。

 整備所から帰って来るも、直したばかりなのにジャッキはすぐに壊れてしまう。うんざりしたジャックは女を一人残し去ろうとするが、もう一度だけ整備所に送ってくれ、と頼まれ嫌々ながら再び整備所へ向かう。しかし、

 「あんたって使えない男ね」

 こういわれたジャックは突如激高し、ジャッキで女の顔をめったうちにし殺してしまう。

 この事件でたがが外れたのか、次々に人を殺しては、死体を芸術と称し写真に収めてゆくジャック。殺人を通しだんだんと自信をつけ、人間らしいふるまいを身につけ、擬態するようになる。しかし、その中身は何も変わっていなかった。自分の作品に陶酔した彼は、とうとう自らを“ミスター洗練”と称し、その作品を新聞社へ送り付け公表するようになる。

 その一方で、家の建築は一向にうまくいかず、建てては壊すを繰り返していた……。

(続きは本編で!)

冒頭のシーンで、せっかく整備所で直してもらったジャッキがまた壊れてしまうシーンは印象的でしたね。

“直しようのないジャック”を象徴してるんだろうな。




ここが見どころ!



①俗悪すぎる殺人描写

 この作品の最大の見どころは、度をこして俗悪な殺人描写である。その浅慮で手際の悪い、自己満足的な殺人は、どれをとってもあまりにも非映画的だ。ひどい、ひどすぎる。映画館では、一周回って笑ってしまう声が聞こえてくる。残酷ではなく俗悪という言葉がふさわしいだろう。

 あなたがスタイリッシュなスラッシャー・ムービーを期待しているのであれば、この映画はお勧めできない。しかし『タッカーとデイル』が好きな人は、きっとこの映画を楽しめるだろう。


②サイコパスは悲しむか?

 主人公のジャックはサイコパス。人を殺すことになんの罪悪感も覚えず、それどころかそれを芸術と言い張る、人でなしだ。

 しかし、そんな彼がときおり見せる表情には、ただのシリアルキラーものの映画では見られない感情の動きが感じられる。それは、悲しみに似た何らかの感情のように見える。しかし、かれはサイコパス。悲しみを感じることがあるのだろうか?

 理解を超えた、異端者の複雑な感情の動きに注目だ。


③ネタバレ厳禁!予測不可能な展開。

 本作はジャックと“謎の人物”の対話による回想という形式をとる。この“謎の人物”が誰なのか、観客はそれをあれこれ考えながら見進めていくわけだが、おそらくこの映画のオチを当てられた者はいない

 映画が終わるころには、あなたは空いた口がふさがらない状態であろう(それが良い意味かは保証できないが…)。この映画を楽しみたい人は、決してネタバレレビューは読まずに映画館へ足を運ぶべきだ。

 これからこの映画を見る予定のある人は、ここまでで回れ右をしてページを離脱することを推奨する。


レビュー

※ここからはネタバレを含みます。


恐怖と笑いは紙一重

 「ホラーとコメディは“笑い”や“叫び”といった、肉体的な反応を視聴者に呼び起こすという点で同じである。」

 これは、米ワシントン大学のフィルム・メディアスタディー設立者、ウィリアム・ポールの言葉だ。恐怖と笑いは、お互いに相反する性質のものであるように見えて、実はすぐ隣り合わせにある。

 小島よしおが通りでネタを披露しているとする。今なら彼を知る人々は近づいて写真を撮ったりするだろう。しかし、もし彼が有名ではなかったら?誰も近寄らないに違いない。なぜなら、人前で奇声を発している海パン男は異常者に違いないからだ。

 このように、“ありえないこと”が笑いに転じるか、それとも恐怖に転じるかは、その状況と解釈次第なのだ。それを一番際どいやり方で見せつけるのがこの映画だと言えるだろう。

 この映画の面白さの一つは、“笑える”殺人シーンの数々なのは誰も異論がないと思う。満員の映画館でも会場のあちこちから笑いが漏れているのが聞こえた。例えば次のようなシーンだ。

  • 殺した女の足に結んだロープを車につないで疾走
  • 子供の顔を無理やり笑顔にして、冷凍
  • 乳を剥ぎ取り財布として加工

 映画を見た人は“笑える”の意味を分かってくれるだろう。しかし、今一度冷静になって読み返してほしい。字面だけ見ると、どう考えても笑えない光景だ。

 行き過ぎたスラッシャーが一週回ってギャグになるのは、何もこの映画が初めてではない。『タッカーとデイル』という傑作を思い出してほしい。大学生がウッドチップ製造機に頭から突っ込むシーンで、笑わなかった人がいるだろうか。

 しかし、『タッカーとデイル』とこの映画の決定的な違いは、笑った後にある。笑顔に整形された死体の造形を見て、噴き出す観客たち。しかしそのほんの数秒後、もう一度カメラが顔をアップで写した瞬間、劇場は静まり返ってしまう。不思議なことに、たった数秒前には面白かった死体が、今度はあまりにも不気味に映るからだ。そして、それを笑った自分までもが不気味に思えてくる。

 この体験は、私たちの認識の本質的な歪みを鋭く指摘している。私たちは、“死”や“異質なもの”を、恐怖か笑いのどちらかで色付けしないことには受け入れられないのだ。


ジャックの“圧倒的な断絶”

 もう一つ注目したい点は、ジャックのときおり見せるセンチメンタルな表情の意味だ。

 サイコパスは殺人に罪悪感を感じないとされるが、ジャックもまた人を殺すことになんの抵抗も感じていない。雑誌の切り抜きを見て笑顔を練習するシーンでは彼の感情の欠如が浮き彫りになっており、ジャックが典型的なサイコパスであることが強調されている。

笑顔を練習するジャック

 しかしジャックの感情の動きには、ただのシリアル・キラーものの映画では見られない感情の深み、複雑さが見られる。それは悲しみに似ているが、決して悲しみなどではないはずだ。ジャックはサイコパスなのだから。では、見ている人を無性に悲しくさせる、彼の表情の動きはなんなのだろう……。

 そのヒントとなるのが、ジャックの子供時代の心象風景だ。田舎で過ごした幼少期、ジャックは“草刈り”をする男たちにあこがれる。それを遠い目で見るが自分は混ざろうとしない。その代わりに彼がしたのは、ハサミでひよこの足を切断することだ。同じように刃物で何かを切る行為であることにはかわりない。しかし、彼がするとこうなってしまうのだ。

 彼は本質的に殺人鬼(異常)であり、自分を変えることはできない。彼のあこがれる“ふつうの男たち”を遠くから見ることはできても、彼自身が“ふつうの男たち”の一人になることは、決してないのだ。そこに、この作品の感情の動きがあるように思える。

 この複雑な感情は、シンプルのシーンにも見られる。殺人を続ける中で様々な表情を身に着けたジャック。このころには彼の行動は典型的な女たらしとなっており、またブロンド女を見下し尊大に振る舞う“ふつうの男”に近づいている。しかし、それはどこまでいっても演技でしかない。

 この空虚な模倣の結果できあがったのが、木材を組んだだけの空っぽな家だ。彼には、歴史に残る名建築のような、美しい家を作ることはできない。どれだけ家を建てようと思っても、それは模倣になってしまう。そこにすげかえられるものは、ただ一つしかない。そう、今まで殺してきた死体の数々だ。

  地獄の窓から草刈りを眺める彼の眼が物語っているのは、その断絶なのではないだろうか。ジャックは本質的に俗悪な存在。あたりまえに誰もが持つ美しさに、彼は触れることさえできない。

 そこに、見ているものは悲しさを覚えてしまうのである。中には、社会の主流から外れた異端者としての自分を重ね合わせる者もいるかもしれない。

 決して許されることはない彼らの哀しみを、この映画は許すことのないままに歌い上げている。まさに、異端者の代表トリアーの歌う、Pagan poetry(異端者の詩)だといえよう。




twitterで感想を語り合おう。

ではまた次回、お会いしましょう。

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